10月22日、ツアーの後 夜 完成した絵を しんちゃんにあげにいった
だれかのために絵を描くということって ラブレターを書いて 告白するのに似ている
しかも超ピュアな告白
どきどきどき
わたしはずっと しんちゃんにあげる絵を描きながら 「絵をあげる」というのがどういうことなのか 考えていた
去年はじめて寿にきたとき「わたしもなにかこの街、寿に対して 普段信じてやっている芸術(絵)の力でなにかをしたい、なにかができるのではないか?」と思った
それで去年は イベントで絵を放ったんだ
今年 寿の中に入り込んで そこを日常として過ごすことをしている
どんなに特殊な街でも 住めば都 日々の繰り返しって すごい
ひとはきっと どんな特殊で過酷な状況でも 慣れるって力もってる
いつまでも特別でいられない いつまでも悲惨でもいられない それは 新鮮さを失うってことかもしれないけれど
わたしは そこの風景、人、出来事を自分のこととして 引き受ける 自分のものにするってことなんじゃないかなあ と思う まるっとする 腑におとす 肯定する
目で耳で体で体験した寿を 腑におとすのには時間がかかるかもしれない
ツアーの最初の頃 寿という街を怖がっている人をみて どうにか安心させなきゃ!と焦った でも だんだん思うようになったのが
これは ひとりひとりの 体験なんだ そのひとが今日全身で体験したことを わたしが今すぐ消化させてあげる必要はないんだ ということで
わたしだって はじめて寿に来てから ずいぶんと色々な心境の変化があって
去年よりも今年 やっぱりやっと なにかがわかりかけている
知ること見ることをやめなければ たくさんの示唆に満ちているよ
その方法だって 人それぞれ ちがったっていいだろう 時間だって かかるさ
そうやって 寿への思いが変わるにつれて 「絵をあげる」っていうことの意味も変わってきた!
「〜してあげる」という一方的な行為ではないっ
わたしが 知りたい 知って欲しい もっと もっとっていう ずいっずいっ って動き
絵をあげるっていう 日常とはすこし違う時間 空間に一瞬でもいきたい
そのひとと 共有したい っていう すごく具体的な動き
結局ひとが なにかをしたいと思ったとき 動き出すには目の前の一歩
目の前のひとりからなんだっ
「寿町」っていう観念ではなくて 「しんちゃん」というひとりの人間
そんなふうになったらもう ここがどこか 関係ない
寿町という街と 絵を描くっていうことを経由しての あたりまえの ふつうの 関係
それがあったよ そこにいけたよ